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​水無月の君。

​視点:恵様

がたり、湿気を含んで滑りの悪くなった障子を開けど吹き込む風は生ぬるく、息苦しさすら覚える今日この頃。

少しの雑務をこなすだけでも汗が滲み、額にぺったりと張り付く前髪が鬱陶しい。

 

「はあ……」

火照った身体を冷ますように息を吐き、目にかかる長さの前髪を横に梳きながら縁側へと腰を下ろした。

 

自分以外は誰も居ない、静かな縁側。薄暗い廊下の奥を見つめても、人の気配はない。

手のひらに触れるのはひんやりとした床板で、体温を奪っていくそれがどうにも心地がいい。

ああ、このまま寝転んでこの冷たい床板に四肢を伸ばせばどれだけ気持ちいいのだろうか、なんて。

心を擽る少しの誘惑に瞳を閉じ、また一つ深呼吸をした。

 

ざわり。

擦れ合う木々の音。

 

さらり。

ほんの少しの爽やかな風。

 

ちりん。

響く風鈴の音。

 

音につられるようにして軒先に視線を向けると、先日買い出しに出かけた際に購入した硝子づくりの風鈴が視界の隅できらめいた。

 

水で薄めたような青色のガラスがその身に受けた光を受けきらきらと反射し、ぶら下がる短冊は風に揺られ、その度に耳心地の良い音色を響かせている。

 

ちりん。

『綺麗な音……風鈴、でしょうか』

『常葉さん、向こうの露店からみたいですよ!』

『あっ、八重様お待ちくださいっ!……わわっ!』

『あら……。ふふ、そんなに慌てなくても露店は逃げませんよ』

 

他愛もなく語り合った数日前の記憶に思いを馳せていると、瞬間――。

ぶわ、と強い風が吹き込み、吊り下げた風鈴が一等大きな音を鳴らす。

反射的に閉じた瞳を再び開けば、目の前に居たのは長い髪を風に靡かせている八重様だった。

 

「や、八重様……?びっくりしました……」

ぱちぱちと瞳を瞬かせていたこちらを見て、彼女は白い歯を見せて笑った。

「お疲れさまです、恵ちゃん!」

「八重様も、お疲れ様です」

 

巡回帰りだろうか。

彼女はいつもの薙刀ともう一つ見慣れない桶を抱えており、思わず視線がそちらに流れる。

そんな視線に気が付いたのか、彼女は瞳をぱちりと瞬かせた。

 

「ふふ、見てください!」

 

そう言った彼女は携えていた薙刀を縁側の縁へと立て掛け、両手で抱え直した桶を掲げるようにして見せてきた。

 

中には透明な水と、ふよふよと泳ぐこれまた透明な……

 

「ふふ、心太〈ところてん〉です!」

「心太ですか!えっと……、どうして?」

「この間妖怪から助けた棒手振さんが居たでしょう?先ほどの巡回中に偶々お会いしたのです!それで、良かったらどうぞと、お裾分けいただきました!」

 

嬉しそうに話す八重様を見て、こちらもじんわりと温かいものが胸に広がるのを感じる。

 

「それでですね、折角ですし皆様と一緒に食べたいなと思いまして……」

先ほどまでは意気揚々と振る舞っていたのに、今度はやや気恥しそうに瞳を伏せる彼女になんだか可笑しな気持ちになって。

 

「きっと喜ばれますよ。今日は一段と暑いですから」

 

そう言い腰を上げれば、八重様は笑顔で頷いた。

「あ、では私は表からお台所に向かいますので!」

「はい、では後ほど」

改めて玄関口へ向かって駆けていった彼女の長い髪が風に揺られ、それがまた、なんとも言えず心を擽ったのだった。

 

 

            *

 

流し台で心太の水を切っていると、玄関口の方から数人の足音が聞こえてきた。

微かに聞こえてくる話声で気が付いたのだろう、ぱっと顔を上げた八重様は「私、お迎えに行ってきますね!」と笑顔で駆けて行った。

 

『おかえりなさい、尊様、朱鷺田さん!』

『ただいま、八重』

『おう、ただいま。お前はほんと元気だな』

『はい!八重はいつも元気ですよ!』

『そりゃいいこった!』

 

からからとした笑い声と、ぱたぱたと鳴る足音。

きっと尊様は穏やかにほほ笑んでいて、豪にい様は大きな口を開けて笑っていて、八重様は楽しそうに駆け回っているのだろう。

 

そんなことを想像しては、無意識に口角がゆるむ。

こうした台所仕事の最中に背中側から聞く日常の音が、その音から想像する風景が、実は特別なものだったりするのだ。

 

先ほどまで感じていた初夏の重苦しく湿った空気はどこ吹く風。

さらりとした爽やかな気持ちを抱いて、手のひらに残った水の粒を拭った。

「心太にはお醤油と……、おさと…あ、わわっ!!」

 

 

「何やら騒がしいと思ったら。八重、大丈夫かえ?」

「…………うう。面目ないです、玖香様……」

 

 

……これもまた、日常かな。

 

 

【おまけ】

 

「心太に醤油……?珍妙な食べ方じゃ」

「葉室様、え、何か変でしょうか……?」

「京では醤油は使わん」

「え!?そうなのですか!」

「……どっちもうまい」

「あっ要様!つまみ食いはいけませんよ!」

* 江戸では砂糖もしくは醤油をかけて食べ、京・大阪では砂糖のみだそう。

​R6.6.26 恵様、お誕生日おめでとうございます!

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