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​弥生の君。

​視点:葉室様

ほのぼのと夜が明け、段々と白んでゆく空。

顔を覗かせたお天道様が柔く照らす大地は無彩色の冬を超え、新芽が実を結び、木々の蕾はほころびを見せる。

そんな、麗らかな春。

障子越しに注ぐ淡い光に目を覚ませば、小鳥たちのさえずりが耳を擽った。

暦の上では春を迎えたとて肌寒さを残す空気に微睡んでいた思考がやっと眠りから醒め、このまま顔でも洗おうかと自室を後にした。

一歩外に出てみれば廊下は普段よりも薄暗く、しんと、静まり返っている。

恐らく皆はまだ眠っているのだろう。

“暁を覚えず”……それもまた、春らしい。

 

              

 

軽く身支度を済ませたはいいが、朝餉にはまだ早い時刻。

朝稽古をするか、読み進めていた書物の続きに時間を充てるか……。

いずれにせよ一先ずは自室に戻ろうと廊下を歩いていれば、聞きなれた声が響いた。

 

「早いですね、万羽」

声と同時に、ぬっと、廊下に面していた庭の中に人影が立つ。

白い髪を後ろ手に束ねたその人は――

「尊様……、そこで何を?」

九条尊様。自身が従たるお方だった。

彼はいつもと変わらぬ柔らかい笑みを浮かべたまま、自身の問いに対しての答弁をするべく口を開いた。

「花の世話ですが」

至極端的な説明。

見て分かりませんか、とでも言いたげに水桶を掲げる尊様に自分が問いたいのはそういう事ではないのだと示すように息を零せば、彼はくつくつと笑いを漏らしている。

 

「紫羅欄花が咲いていたもので、つい」

手のひらに付いた泥を軽く掃い、促すように庭の一角に視線を向ける尊様。

彼に合わせるようにして自身も目を向ければ、そこには色鮮やかな赤い花が咲いていた。

 

「あれは確か……、異国から渡ってきたと言う」

「ええ、美しいものでしょう。苗を分けて頂いたので植えていたのですが、ちゃんと冬を越せたようで嬉しくて」

そう言い、どこか、眩しいものを見るようにして瞳を細める尊様。

 

「世話であれば貴方がせずとも……、お身体も冷えますから中に戻りましょう」

「何を言うやら。手で触れ、そのものを実際に感じ取ることは大切でしょう?」

「またそのように遠回りな言い方をして……。煙に巻こうとされていますね」

「……お前はいつから私の御目付け役になったのですか」

わざとらしくうんざりとした表情を浮かべ、ぶつくさとそう言いながらも縁に戻ってこられた尊様は草履を脱ぎ、そのまま指先に引っ掛けて玄関口の方へと足を進める。

そのまま去ってゆく様子を見送っていれば、不意に彼が振り向いた。

 

「そういえば、今年は仁和寺の御室桜がもう咲いているんだそうで。みなで見に行きましょうよ」

そう言った尊様は笑顔を浮かべ、こちらの返答を待たずして廊下の角を曲がっていったのだった。

 

              

 

――それから数日の後。

雪解けの季節だというのに、ここ<仁和寺>の石畳は桜の花弁で白く染まっていた。​

「ここが仁和寺ですか……」

「お、なんだ。恵は初めて来るのか」

「はい、初めて来ました!話に聞いていた通り、凄い綺麗な桜……」

忙しなく辺りを見回し浮足立った様子の恵に、からからと快活な笑顔を向ける朱鷺田。

 

その後ろには、かつかつと軽い音を響かせながら歩く二人。

「あら……、桜を見るにはまだ少し早いのかと思っていましたけれど……見事な満開ですね」

「風に揺られ散る花びらもまた、美しいものじゃのう」

ほう、と感嘆の息を漏らして木々を見上げる常葉に、舞い落ちた花弁をつまみ上げ日光に透かしている玖香。

二人の嫋やかな髪が風になびき、桜とともに宙を舞う。

 

そうしていれば、今度はぱたぱたと忙しない足音が聞こえてくる。

「尊様、見てください!桜が満開ですよ!あちらの桜はふわふわですし、こちらのは垂れています!」

「ええ、ええ。分かりましたからそう焦らないで、八重」

「あっ、すみません……」

兄と妹か、父と娘か。そのようにも見紛うような、朗らかに笑い合う二人。

 

「あちらのは八重桜でしょうね。あなたの名と同じ字を書くのですよ」

「やえ、ですか?」

「ええ。沢山の花びらが重なっている桜のことを“八重桜”と言うのです」

「そうなのですか……!」

軽く弾んだような声を響かせるのは八重。そして、その後ろからゆったりと歩く尊様。

 

皆思い思いに桜を楽しんでいる中、不意に一本の木の下で足を止めている壬生が視界に入った。

 

「壬生、そこで何をしているんじゃ?」

「いや?ただ……」

そう言った壬生は、そのままそっと、桜の幹に手を添える。

「――この木、もうずっとここで生きているんだな」

そう言いながら彼が見上げた桜の木は辺りのものと比べて一等太い幹をしており、樹齢も相当なものであることが窺えた。

「まあ……そうじゃろうな。ここまでになるには何百年……いや、千年を超えるか」

「へえ、桜って長生きなんだな」

「……桜に限った話じゃなかろう」

そう話しながらも壬生は辺りを見回し、口を開く。

「……にしても、本当にここは桜だらけだな」

 

どの方位を向いても視界には桜。

白く、淡く、柔らかな花たちが、訪れた人々を囲んでいる。 

 

日光を反射して白く輝く花々に、一瞬、くらりと眩暈を感じて瞳を伏せた。その時。

『ええ、――花洛、ですから』

 

 

すっと差し込まれた声に弾かれるようにして振り返れば、そこに立っていたのは尊様だった。

「からく?」

言葉の意味を得なかったのか首を傾げた壬生を見て、尊様は穏やかに笑っているだけだ。

そんな二人の様子に、思わず軽く息を吐いて眉間を揉む。

「ここ、京の都は“からく”……つまり花の都と呼ばれているんじゃ」

付け加えるようにしてそう言えば、いつの間にか隣に並んでいた尊様が言葉を続けた。

 

「桜には水を生ずる徳があり、火災を防ぐと言われています。少し離れた大原野神社には、ひとたび満開の様を見れば千の願いが叶うとされる“千眼桜”なんてものまであるそうで」

「せんがん……?」

「“千の眼”と書いてせんがんです」

「……?千の願いじゃないんだな」

「ふふ、確かに。なんでも、遠目に見た満開の様子が“沢山の眼”のようだそうで、眼という字を充てているのだとか」

「へえ……」

そんな会話を聞きながらひと際大きな桜を見上げると、つられるようにして二人も顔を上げる。

「……私は、この美しい植物に守られている、この地が好きですよ」

そう言った尊様は、舞い落ちてきた花弁を掌で受け止めたのだった。

 

――なんと穏やかなものだ。

春の陽気と、満開の桜。

艶やかで、鮮やかなこの季節。

どうか。

この地に生きる人々の行く末が、このようにあたたかく、鮮やかなものであればよいと――。

そう、願わずにはいられなかった。

 

「折角ここまで来たんじゃ、参拝でもしていかんか。尊様も」

「ええ、そうですね」

 

 

“久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ”

――こんなにものどかな日の光が注ぐ春の日に、桜の花は、どうして落ち着いた心もなく、せわしくなく散っていってしまうのだろうか。

​けれど、今は満開だ。

​R6.3.20 葉室様、お誕生日おめでとうございます!

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